体を鍛えることの意味

ほとんど日本映画は見ないのですが
昨日GYAOでやっていた「ユリイカ」という映画がカンヌ映画祭で賞を取ったということで
見始めました
あまりに暗い映画で最初の30分ぐらいで眠ってしまったのですが
そのなかで
この中の主人公の名前が自分と一文字違いだったのをはじめ
30分の間に自分の母と叔父といとこの名前が
いつも父の呼び方のままの呼びかけ方で
登場しており
まあ偶然といえないこともないですが、長い映画なのでこの先ずっとみていくと
ほかにも色々自分に対する仄めかしのようなものを発見できるかも知れません。
あまり好きな感じの映画ではないのでたぶんもう見ないとは思いますが・・・

ところで自分は以前周一ぐらいの割合でジムに通っていましたし
今も自己管理のために2週間に1回ぐらい
プールに通っています。
別にいきたいわけでもなく
逆に今日あたりそろそろ行かないと思うと
憂鬱になるくらいで
また泳いでいる最中にさえ特別面白いと思っているわけでもなく
ただ時間ばかり気にしています。
それなのになぜ行くかというとやっぱり行くことで安心するからです。
つまり体を鍛えることで健康を維持できると信じているからです。
少なくとも行かないよりはいったほうが格段いいだろうと信じているからです。
それで泳ぎ終わったあとそれなりの自己満足と同時に
これであと2週間は来なくてもいいと思うとひそかに嬉しくさえ感じます。

たまに宗教はこれに似ていると思うことがあります。
つまり「信じる」ということで救われるということです。
たとえどんな宗教であっても 間違った教義であろうが信じている人にとっては
それなりに効果があると思うのです。
心の安定を得られるということでしょうか。
心の安定を得られれば将来に対して明るいイメージをもつことができるし
それはプラスのイメージコントロール効果で実際の行動や成果として現れることもあるでしょうし
多少効果があるとそれが又その宗教のおかげと信じ
だんだんのめりこむようになっていくということでしょうか・・・

よくイスラム教で聖戦というのを聞いたことがあります。
最近でもよく自爆テロ等を頻繁に耳にします。
彼らは聖戦で亡くなれば天国にいけると信じているからこそ
あんな大胆な死に様を選択できるのでしょう。

逆に言えば信じていない人にとっては
すべてが全く効果がないばかりか苦痛でしかありません。

確かに、この世の中、肉親の愛情を含め何もかも確実なものがない中で
これだけは確かなものとしての「神」の存在を信じられれば
それにこしたことはないのかも知れませんが
人から決して強制できるものでもないし、
価値観も多様化しているなか
自分たちの宗教を守り理想世界の実現のためだからといって
法律や道徳や倫理を無視してもいいということがあるならば
憎しみが憎しみを生み
さらには世界は大宗教戦争でとりかえしのつかないことになるかも知れません。